


既に古い話題になっているかも知れないが、「ハルウララ」という競走馬が昨年の冬頃 から話題になっています。競走馬にしてはやや小柄なので、「がんばれコール」が少し かわいそうな感じです。でも、一生懸命走っているんですよね。どこかのヨット部のレー ス模様と二重写しになるのは、私だけでしょうか? 記録的な百何連敗なのに馬券の売上がすごいとか、同じく連敗中の妹との対決レースを 計画したり、決して当たらないということで、交通安全のお守りを売り出したりと、主催 者の「ウララ〜♪」が聞こえてきそうです。 若い女性二人が最年少記録の芥川賞を受賞した。まんまと出版社の策にはまって、一気 に読んだ感想は、いつものように長い編集後記に。 寄稿は、水野さんの『美州エンジンとスターンブラケットベアリングの修理』と題し、 懸案だった「美州」のエンジントラブルとその修理に関する顛末と、ラグーナ蒲郡へのクル ージング報告が寄せられました。また、『風待ち帆陰白波間の読書案内』の第3弾『鳥島 について』も合わせてご一読を。 まずはお待ちかねの活動報告から。 【活動報告(平成16年1月〜4月)】 《ヨット部 1月例会》 開催日時:平成16年1月13日(火) 開催場所:西庁舎11階会議室 出席者:水野、吉岡、鈴木、加藤、有馬、知田、佐藤、小島 概要:主な議題は以下のとおり。 @総会の日程について 2月5日として、場所は加藤総務が手配。 A艇整備について 平成15年12月21日(日)に、名古屋港ヨット・トレーニングセンター内の部所有 艇の整備を行った。参加者は水野、吉岡、鈴木、有馬、佐藤で、整備内容はメンハリワイヤー 交換、船台タイヤ交換、マスト整備、カバーの整備等を行った。整備後、トレセンの清掃に 協力した。 Bヨット教室について 5月下旬に行う予定とした。(後に7月18日になった) 《ヨット部 15年度総会》開催日時:平成16年2月5日(木) 開催場所:栄 「嘉文」 出席者:山田部長、柴沼、森(信)、水野、西田、川浪、森(国)、吉岡、鈴木、加藤、 近藤、有馬、知田、佐藤、小島 概要:主な議題は以下のとおり。 @平成15年度会計報告(仮) A平成16年度役員選出(全員留任) 部長:山田雅雄(上下水道局長)/副部長:小島克生(上下水道局建設課長) 総務;加藤国昭(財政局収納対策室主査)/会計兼副主将:有馬光秀(交通局建築係) 監督:鈴木敏夫(緑政土木局守山土木事務所工務係長) コーチ:近藤信幸(住宅都市局ささしまライブ24総合整備事務所主査) 主将:山田直毅(財政局主税課)/名古屋港幹事:川浪憲一(市大医学部) 指導普及委員:間宏司(緑区役所)、堀田和政(住宅都市局特定交通施設整備室主査)、 吉岡 敬(住宅都市局志段味総合整備推進室主査) (所属はH16年2月現在) 総会終了後、懇親会に移り、“名古屋かに”進行し、盛会に終わった。ただし、不手際が あり、会場が急遽変更になり、大部屋に他グループとの混合となり、やや窮屈であった。 《ヨット部 3月例会》 開催日時:平成16年3月9日(火) 開催場所:西庁舎11階会議室 出席者:水野、川浪、吉岡、有馬、加藤 概要:主な議題は以下のとおり。 @ 平成16年度ヨット部活動予定について(別紙活動予定表参照) *合宿練習:5月15日(土)〜16日(日)/*練習:6月6日(日) *合宿練習:6月19日(土)〜20日(日) *中部自治体・近畿自治体大会:7月3日(土)〜4日(日) *ヨット教室:7月18日(日) *ファミリーディ:7月31日(土) 予定 *8月8日:練習 *全日本自治体大会:8月20日(金)〜22日(日);海陽YH *練習:9月12日(日)、9月26日(日) *クルージング:10月15日(金)〜17日(日) *練習:10月31日(日)、11月14日(日) *整備:1月23日、2月13日、3月13日 A 県連からの報告 *ナショナルレースオフィサーの公示(レースオフィサーとは、ジュリー、ジャッジ、メ ジャラーに加え、新たに大会運営総合的なプロデューサー的な役割を行う責任者制度の 新設) *県連会長人事 神野現会長(中部ガス社長)から豊田鐡郎新会長(トヨタ織機副社長) *2005年 愛・地球博パートナーシップ事業として国際セーリングシリーズとして以 下の国際的な大会が地元で開催される予定。 ・ミストラルアジアコンチネンタルチャンピョンシップ (20005年4月後半) ・セーリングスピリッツ級セーリングゲーム(同5月) ・スナイプ級世界選手権(同7月23日〜31日) ・国際交流・ジュニアヨットクラブ競技会(全国少年少女)(同8月5日〜7日) ・こどもセーリングキャンプ(同7月、8月) ・デニスコナーカップ&ジャパンカップ(同9月) ・J24国際大会(未定) 過去、我が部も、幻の名古屋オリンピックの招聘のための実証大会であった「東アジ アレガッタ大会」、デザイン博協賛の名古屋港での「姉妹都市対抗ジュニアヨット大会」、 「若しゃち国体」など、過去大きな競技会の運営に関係してきた経緯・経験から、協力し ていくことになるので、部員皆さんの協力をお願いします。 《ヨット部 4月例会》 開催日時:平成16年4月13日(火) 開催場所:西庁舎12階会議室 出席者:川浪、吉岡、鈴木、知田、佐藤、小島(西田は別会場での“意見交換会”から参加) 概要:主な議題は以下のとおり。 @ 4月の異動確認 A 日本セーリング連盟登録について 選手登録上必要なので、必ずしておくこと。また、名簿等に期限、登録Noなど必要事項を一 覧表にしておくこと。 Bヨット教室の宣伝について 7月開催のヨット教室の周知を図ること C新入部員の勧誘について 各所属で新入職員を中心に入部勧誘をする。口コミ、DMなど工夫を。最近の少職員化、 クラブ組織への不人気、個人レベルでの趣味の多様化・アクセスの簡易化など、新入部員 が少ない状況であるが、組織の新陳代謝のためにも是非必要なので、海やヨットの楽しさ などを周りに伝える努力を。 《ヨット部 5月例会》 開催日時:平成16年5月11日(火) 開催場所:西庁舎11階会議室 出席者:水野、川浪、吉岡、鈴木、桜井、加藤、有馬、佐藤 概要:主な議題は以下のとおり。 @活動日程確認 *5月15,16日予定の合宿練習中止(「おぃ! いきなりかよう」と突っ込みが ありそう) (5月16日の練習は実施) *6月19,20日に合宿練習実施予定 Aヨット教室の募集は口コミで(広報に間に合わなかったため) B中部近畿自治体ヨット競技大会参加者の確認 【トピックス】 <県連新会長就任披露パーティー開催> 5月15日(土)16時から、刈谷市の「シャインズ」3階ホールにて、蒲郡市長を始め多く の方々が出席され、「愛知県ヨット連盟名誉会長及び会長就任祝賀会」が開催されました。 平成16年度より、神野信郎会長(中部ガス且ミ長)が名誉会長に、豊田鐡郎氏(竃L 田自動織機副社長)が会長としてそれぞれ就任されました。 豊田新会長は、英語が堪 能なエグゼティブである一方、ヨットも碧南でクルージングを楽しまれており、船上で はもっぱらヨットマンならぬ、酒に「酔っとるマン」だそうです。我らヨットマンにと っても心強く、また親しみの持てる新会長です。今後のご活躍に期待しております。 【編集後記】 冒頭のハルウララの話の続きです。交通安全のお守りの中には、ハルウララの毛が入っ ているそうですが、これが動物虐待だという批判で販売を中止するとか。でも、ブラッシ ングした時に出る抜け毛を細かく切って入れているだけだそうだけど、色々と言う人が いるんですね。当のハルウララにしてみれば、『ごちゃごちゃ言うなら後ろ足で蹴飛ばす ぞ』という感じではないでしょうか。 「蹴りたい」といえば、第130回(平成15年度下半期)芥川賞受賞作品名にはび っくり。綿矢りさの「蹴りたい背中」と金原ひとみの「蛇にピアス」で、最初聞いた時 は「何じゃこれ!?」という感想。 しかも、二人とも二十歳前後の若い女性ですが、 話題づくりなのかと勘ぐってしまう。 芥川賞最年少受賞記録の2作品を掲載した雑誌 「文芸春秋」3月号は、売上が倍増して118万5千部も売れ、同誌最多発行部数記録 だったそうです。出版社のねらいどおりで、こちらも「ウララ〜♪」のようです。 単行本もそれぞれ売れたけど、雑誌の方が安く、2作品を一度に読めるお値打ち感や、 話題性はあるけど単行本を購入してまで読むほどではという評価が同号の購入理由であ ろう。編集子も同じ考えで購入した一人である(自分がそうだから他も同じと言い訳し ているみたいだけど)。 『蹴りたい・・・』は、私としては読むリズムが合わない。主人公の男友達に対する 「軽蔑といとおしさ」が微妙に交錯する心の動きは面白かったが、まどろっこしくて、 読んでる途中で作品自体を「蹴りたく」なってしまった。『蛇に・・・』は、おどろお どろしさがあって、少し閉口気味だったが、だんだんのめり込むようなテンポがあり、 文章に意外に無駄がなく、計算されたものを感じた。 芥川・直木賞は共に新人作家の登竜門でしかなく、これから二人がどのような作品を どんどん発表できるかで、作家の評価が決まってくる。今までの受賞作家のほとんどは、 発表する度に才能が枯渇して、いつのまにか消えることが多い。今回の受賞作品は若い 世代の感性でしか書けない作品だから、中年のおばさんになって、どんな作品を書くか 楽しみだが・・・。 中年のおばさんといえば、彼女達がはまっているのが韓国TVドラマ「冬ソナ(冬のソ ナタ)」の主人公「ヨン様(ペ・ヨンジュン)」です。甘いマスクとやさしい微笑、誠実 で知的。NHK地上波の放送でさらにブレイク。毎週土曜日夜が待てずにDVDを買う人も。 おじさんしっかり! さて、ヨットシーズン・イン!! 中年のおじさん諸君、ピチピチの若い娘を見るな ら、海に行くに限る。セーリングに行くぞ〜。おっと、その前に、晩酌を止め、ダイエ ットしてビール腹を引っ込めなければね(ヨン様には遠いけど)。若い娘も見向きもして くれませんよ。 毎度のことですが、また編集後記が長くなりました。(Y.K.)
| 『風待ち帆陰白波間の読書案内(3):鳥島について』 上下水道局 小島克生 |
1.鳥島とはどこ? 「(1)海洋文学について」、「(2)漂流記について」に続き、今回は「鳥島」について である。「鳥島」という名前の島は多くある。鳥しか通わぬ絶海の孤島というイメージな のだろうか。有名なところでは、伊豆諸島の南端の「鳥島」(伊豆鳥島、八丈鳥島とも いうらしい)、そのさらに南、小笠原諸島・硫黄列島の南東に日本最東端の「南鳥島」、 さらに南の沖には日本最南端の「沖ノ鳥島」がある。いずれも東京都である。その他にも、 長崎県五島列島の南西、男女群島の西のはずれに「鳥島」(肥前鳥島ともいう)、鹿児島 県奄美諸島の西のはずれなのに何故か沖縄県最北端の「硫黄鳥島」、沖縄諸島の西のは ずれ久米島の北にある「鳥島」、千島列島の「千島鳥島」などなど。どれも確かにはずれの 方にある。(ちなみに日本最西端は石垣島や西表島のある八重山諸島の西にある与那国 島で、ついでに問題になっている尖閣列島・魚釣島は西表島の真北にある) 2.伊豆鳥島(八丈鳥島ともいう記述あり) 東京から南へ600kmほどの太平洋にある無人の火山島で、直径2.7km、周囲8km ほど。今なお、群発地震が続き、島中央の火口から噴煙を上げている。 この島はアホウドリの貴重な繁殖地としても有名である。アホウドリは北半球では最大 の海鳥で、かつては南の島々で繁殖していたが、行動が俊敏でなく、乱獲で絶滅に瀕し ている。現在、この鳥島と尖閣諸島の2箇所で数百羽が繁殖しているだけという。この 伊豆鳥島にまつわる漂流記は多い。 3.江戸時代と漂流との関係 特に、江戸時代に海難事故が多く、漂流が多かった訳ではないだろう。ただ、鎖国政 策により、外洋航海技術の衰退と国内廻船海運の隆盛が海難事故とそれに伴う漂流が多 発した二大原因といわれる。 鎖国前は中国、東南アジアなど海外に多くの日本人が進出し、御朱印船などでの交流が 盛んであった。太陽や星の位置から方位などを割り出す「天測航法」があり、外洋に出 ても迷うことは無かったはず。しかし、鎖国以降は陸地や島などを頼りに沿岸を航海す る「山見航法」になってしまった。 前号の『漂流記について』にも紹介したように、暴風雨に会うと、神仏に祈り、積荷を 捨て、最後は帆柱まで切り倒してしまう。帆柱を無くせば推進力は無くなるから、暴風雨 が去っても、海流や波まかせの漂流をするしかない。また、この海流が問題で、太平洋側 には黒潮があり、これに乗ってしまうと千島、カムチャッカあたりまで流される。これで ロシアに漂着して、数奇な漂流記を生んだことは前号で紹介したとおりである。黒潮が 南に反転している分流に乗ると、今度はハワイや北米西海岸、または小笠原諸島からさ らに南の島々に漂着することがある。人が住んでいる伊豆諸島ならともかく、南半球ま で漂流することも。 もう一つの原因は物流にあった。江戸時代に「天下の台所」といわれた商業都市大阪 に集められた米が当時世界最大の人口を誇る大消費地の江戸へ、多くの廻船で運ばれて いた。特に新米が運ばれる秋から冬に多いのだが、この季節、日本近海は北西の風が強 く、海難事故の確率は増える。小さな船による国内廻船海運が盛んになればなるほど海 難事故が増えることになった訳である。 江戸時代以降は生還したからこそ、また帰国後、役人や学者にしっかりと取り調べら れるから、記録が残り、漂流記等の海洋文学の素材になることができた。多くの海難者 は海に沈み、たとえ漂流しても食料が無くなり死に絶え、また島などに漂着しても助けが 無ければそこで死んでしまった。ただ、ほんのわずかな人々が、孤独と絶望の中、壮絶な サバイバル生活を生き抜き、かつ、幸運に恵まれて帰国できたのである。 4.鳥島の漂流記 伊豆鳥島において、江戸時代の中期(18世紀)の前半と後半に起きた二つの漂流記 については、『鳥島漂着物語』(小林 郁 著:成山堂書店刊)に詳しい。 まずは、18世紀前半の漂流記は、奇しくも同じ漂流記である「ロビンソンクルーソ ー」が刊行された1719年(八代将軍吉宗の時代)に、遠州荒井(静岡県新居)の船が 九十九里浜沖で遭難し、漂流後、遠州人12名が鳥島に漂着した。岩ばかりの無人島で 水も食料となる草木もほとんど無かったが、手づかみで捕らえられる鳥(アホウドリ)が たくさんいたので、それで何とかしのぐことができた。その後、米を積んだ無人船が漂 着し、その中にモミ米が一俵あったので、それを蒔いて米を収穫したという。そうして 20年が過ぎた。 なんと「20年」である。この間、12名の内3名しか生き残れなかった。1739 年、江戸堀江町の17名が新たに漂着した。彼らに先着の遠州人が声をかけたら、その 風体がとても人間とは思えない鬼の様であり、驚き逃げ回ったという。頭髪もひげも伸 ばし放題で、まともな衣類も無く、日焼けと垢で赤銅色の顔や体では、人間とは思えな かったであろう。 漂着した船は航行不能だったが、伝馬船が無事であったため、20名は伝馬船で鳥島 を脱出し、3日後、無事に八丈島にたどり着くことができた。 次に、18世紀後半の漂流記は、1785年、土佐藩の藩米を運んだ後、遭難し、2週 間漂流後、長平ら4名が鳥島に漂着した。この土佐人の長平は、小説『漂流』(吉村 昭 著:新潮社刊)の主人公でもあり、その物語は映画化もされたそうだ(残念ながら 見ていないが)。無人島に漂着したが、火起しの道具を無くしたため、魚や鳥を生で食 べなければならなかった。鳥は遠州人のように楽に捕らえられたが、春になると数が少 なくなり、渡り鳥であるということに気づき、塩水をつけて干し肉を作ったという。水 は雨水をアホウドリの卵の殻をたくさん並べて集めた。2年の内に3名が病死し、24 歳の若い長平だけが生き残った。 漂着後3年後、肥後の船が火種を持って漂着し、さらに2年後、薩摩の船が漂着し、 16名の共同生活が約8年間続いた。その後2名が死に、残った14名が3年がかりで 船を作った。一口に船を作るといっても、素人が難破船や流木を集め、ふいごを作り錨 から釘を作ったり、貝殻を焼いて石灰を作り舟板の隙間を埋めたり、また、樹皮を網状 に編んで帆布を作るといった、驚くべき苦労を重ねた。さらに数年かかって、海まで船 を運ぶ道路まで建設した。まさに『プロジェクトX』の世界である。 1797年、長平としては12年4ヶ月ぶりに鳥島を脱出し、5日後に「幸運にも」 八丈島近くの青ヶ島にたどり着き、救出された。鳥島を脱出しても、また漂流するかも しれないという心配はあったと思うが、敢えて島からの脱出を選択した勇気も驚くべき ものがある。絶海の孤島で、原始生活をし、孤独と絶望の中、新たな仲間と何年もかけ 船を作り、再度海に出たのは「どうしても日本に帰る」という強い意志があったのであ ろう。死んだ長平の仲間は、無人島の生活に嘆き悲しんでいただけだったとか。長平は 強い意志を持ち、適度の運動に心がけ、月の満ち欠けで付けた日付は、帰国した時、間 違っていなかったという。 5.その他の漂着物語 また、「日本庶民生活史料集成(第五巻)」(三一書房刊)には江戸時代に漂流して、 外国船に助けられたり、島に漂着して帰国した船乗り達の話が18編掲載されている。 その中にも、もちろん長平の漂流記もある。 鳥島に漂着した遠州人(1719年漂着)と土佐の長平(1785年漂着)の間の1 755年、和泉の船が漂着した。漂着後4年間に5人の内2人が死んだが、その内ま た同じ和泉の船が漂着した。この船に助けられ、まさに脱出しようとした時に土佐の 船が漂着したので、一緒に脱出することができた。もし、土佐の船の漂着が少しでも 遅れていたら、また和泉の船が早く脱出していたら、土佐人らは長い無人島生活を強 いられることになったであろう。運命とは過酷である。 鳥島に漂着した者は多数いたであろうけど、帰国した者の記録しか残っていないの で、はっきりはしない。1841年、あの有名なジョン万次郎もこの鳥島に漂着した。 5ヵ月後、海亀の調査に来たアメリカの捕鯨船に助けられ、アメリカに渡った。 6.世界最長海上漂流物語 島や外国に漂着し、何年も帰国できずにいた「漂流記」があるが、文字通り海上を ずーっと漂流し続ける「漂流記」もある。1813年、名古屋の督乗丸が江戸からの 帰途で、御前崎の沖合で遭難し、アメリカ西海岸でイギリスの船に助けられるまで1 年5ヶ月も漂流しつづけていた。この船の船長重吉の体験記が『船長物語』として残 っている。 積荷に米6俵、豆700俵があり、それで何とかしのぎ、水は「らんびき(蘭引)」とい う蒸留器で、海水を煮立てて、その蒸気を海水で冷却して得た。船にあった燃えるもの は船体を含め何でも使ったようだ。それでも、望郷と絶望の精神状態から、14名の漂 流者の中には、無気力になったり自殺しようとしたりする者もいたが、船長の重吉は全 員で車座になり、縄を大きな数珠に見立てて握り、念仏を唱えることで気を紛らせた。 念仏を唱えないものには食事を与えないというルールも作ったり、泣く者を叱り、気弱 になった者を慰め激励したりした。 船長重吉のリーダーシップの下、長期の漂流生活を乗り越えた結果、救出につながっ たのであろう。通常は、もっと早く食料がつき、気力を無くし、心身ともに耐えられな くなり、死に絶えて船のみが漂流することが多かったようである。 7.『メデュース号の筏』 美術の教科書などに画家ジェリコーの『メデュース号の筏』という絵が載っていた。 絵の題名を忘れても、絵を見れば一度は見たことがあると、思い出すかも知れない。 筏での長い漂流の末、彼方に陸地を発見し、服を大きく振り大声で叫ぶ者、陸地を指差 し助かったことを喜ぶ者などをダイナミックな構図で描かれた「感動的な」絵であ る。しかし、一方では筏の上には半身が海に落ちかかった腐乱した死体や死にそうに 横たわっている者も描かれており、狭い筏の上でひしめき合う生と死、明と暗、希望と 絶望などが対比されている構図が「衝撃的な」絵でもある。 この絵がさらに衝撃的なのは、実際の漂流事件をもとに描かれていることである。 その事件は、船長重吉の漂流があった同じ頃、フランス海軍のメデュース号がアフリ カ西岸で座礁したことから始まった。147名の乗員は筏とボートで脱出したが、救 出された時はわずか15人であった。食料も水も十分あったにもかかわらず、2週間 ばかりの漂流で、132人が死んでしまった。口減らしのために殺し合いが行われ、 指揮官のショマレーは、筏を置き去りにしてボートで悠々と脱出して、救助されたと いわれる。 漂流という異常事態で、重吉のような強力なリーダーシップがいかに重要か、ショ マレーのような責任者の無責任行動がどんな悲劇を招くか、対照的な事件である。 8.他の鳥島物語 <南鳥島> 東京から南東に約2千キロの海上に、空から見ると緑色の、ほぼ正三角のクラッカ ーに爪楊枝が刺さったような島が、日本最東端の「南鳥島」である。明治から大正にか けて、鳥の糞、羽毛の採取で入植したが昭和になって無人島になった。 太平洋戦争中は旧日本軍の前線基地となり、空襲をかなり受けた。そのため、かなり の死傷者に加え、補給が断たれてからは、食糧不足による栄養失調での死者も加わった。 終戦時に降伏した守備隊副官の中村虎彦中佐の対応ぶりに感服した米軍司令官が守備 兵への対応に最大限の配慮をして、復員させたという。この話は吉田俊雄著『指揮官 たちの太平洋戦争』(光人社NF文庫)に詳しい。 戦後、米軍の統治下となり、米国の沿岸警備隊が駐留し、「マーカス島(またはマル カス島、ウィーク島)」と呼ばれ、船舶が海上で位置を確認するための電波を発信す る「ロランC」(長距離電波航法システム)のアンテナ局になった。冒頭の爪楊枝はロラ ンCの高さ213mのアンテナである。昭和43年日本に返還され、平成に入ってから、 沿岸警備隊が撤退し自衛隊と気象庁の職員が常駐している。人工衛星によるGPSの整 備で、米国がロランCから撤退したため、日本がその業務を引き継いだためである。 標高は最高地点でも海抜20mほどのさんご礁の島なので台風で一部水没すること もあるとか。この島は、日本列島が載っている「ユーラシアプレート」でなく、ハワイ諸 島が載っている「太平洋プレート」にあるので、「フィリピン海プレート」に割り込まれ て、徐々に本土から離れていく関係にあるらしい。 <沖ノ鳥島> 日本最南端の、さんご礁の無人「島」。東京から南に約1700km、北緯20度2 5分といえば、唯一北回帰線より南にある熱帯に属した日本の領土で、緯度からすれ ば、台湾より南で、ベトナム・ハノイ、インド・ムンバイ(ボンベイ)、ハワイ、メキシ コシティなどと同じほどで、この島の南方には北マリアナ諸島(グアム島等)があると いう。気の遠くなるほど遠いので、日本の領土という意識が薄いが、これが日本にとっ て非常に重要な意味を持つ。 「島」というよりナスのような形をした環礁で、東西約4.5km、南北1.7km、周囲 11km、面積8平方kmだが、満潮時は2つの露岩がわずかに見えるだけで、合わせ ても4畳半くらいしかないという。その岩を波に削られないように周囲をコンクリー トの防波堤で囲っている。そこまでしてこの岩を守り、国際法上「岩」で無く「島」 であると日本が主張しているのは、この島の周囲、半径200kmを排他的経済水域(いわ ゆる200海里水域)が設置できるからである。 こんな絶海の「小島」を誰が発見したのか?1543年、スペイン人がフィリピンから 北太平洋の探検に出港した。その際、多くの島を発見したが、当時の距離や方位を測定 する技術レベルでは、発見した島が現在のどの島かは明確ではない。 1565年、初代フィリピン総督に率いられたスペイン艦隊が、珊瑚礁の島を発見した という記録がある。その後も、多くの船が座礁に注意しなければならないとして海図 に載せていた。この辺のミクロネシアの島々は16世紀以降スペイン領であったが、 1898年、米国との戦争に敗れて、財政難になりドイツに売却した。 日本は明治以降、小笠原諸島(1876年)、南鳥島(1898年)など南の島々の領有を宣 言したが、沖ノ鳥島までは気づいていなかったようだ。第1次世界大戦が始まると、 日本は連合国側としてドイツに宣戦布告して、あっという間にドイツ領の島々を無血 占領した。当時これらの島々は「南洋群島」と呼ばれ、パラオ諸島に「南洋庁」が置か れた。(『山月記』、『李陵』などで有名な作家中島敦はこの南洋庁に勤務してい た。)しかし、人が住めないような小さな珊瑚礁の「沖の鳥島」など見向きもされ なかったので、どこの領土でもなかったようである。 その後、1931年(昭和6年)、「東京府小笠原島沖ノ鳥島」となった。軍事上の重要 性に目をつけた当時の軍部が1939年からは灯台建設工事を開始し、基礎工事まで完成 したが、台風等で工事は難渋し、結局中断した。1988年から89年にかけ、約285億円の 工事費をかけ保全工事を実施し、現在に至っている。 <中ノ鳥島> 沖ノ鳥島の「さんずいへん」を取ると、「中ノ鳥島」になる。漂流記で有名となっ た「鳥島」の東、「南鳥島」の北の彼方に、その島はあるとされていた。 1907年(明治40年)に山田禎三郎という人物が小笠原諸島から560海里(約 1037km)に外周約7km、面積約2平方kmの島を発見、上陸調査し、翌年「中ノ鳥島」 と命名した。海図にも記載されたが、その後確認できず、1946年削除された。 以前から、この付近には「ガンジス島」という存在が疑われていた島の報告があった。 発見者の山田氏は本当に発見したのか、別の島と勘違いしたか、ただの「大ほら吹き」 なのか、今となっては分からない。火山島ならあるいは一夜にして海面から現れ、ま た消失することもあり得る。しかし、この付近は火山帯から大きく外れており、また 付近は水深が5千m以上の海で、珊瑚礁などの浅瀬は無いという。この他にも、幻の 島が多くあるようだが、そんな島を求めて航海するのも一興かも。 9.おまけの話「コロンブスは世界地図を持ってアメリカ大陸を発見した!?」 大海の中の小さなケシの粒のような島なら、海図に載っていない島などいくらでも あるように思える。陸地でも、人跡未踏の地を探検して、地図に載っていない新たな 発見をすることもある。「さまよえる湖」で有名なロプ湖(ロプノール)は『漢書』 「西域伝」に初めて出てくる。湖畔には楼蘭王国があったが、4世紀には滅んだ。 その後、マルコポーロの『東方見聞録』に出てきたり、19世紀にはヨーロッパ人た ちが盛んにこの周辺を探検している。満々と水をたたえていたこの湖が1600年周 期で移動しているという学説が出たり、今では人工衛星からの写真には写っていない など、論争が絶えない。今では多くの探検家がその地図に描いたロプノールは忽然と 消えてしまっている。 さて、表題の世界地図の話に戻ろう。コロンブスがアメリカ大陸を発見する15世 紀末より前に、既にアメリカ大陸が描かれている世界地図がヨーロッパに存在してい たという。その地図には、何とまだ誰も行っていないはずの北米西海岸の地形まで記 されており、南極大陸や南米の風物なども描かれているという。マゼランはこの地図 があったので、確信を持って南米大陸に沿って南下し、マゼラン海峡を越えて、世界 一周を目指せたという説もある。 何故、そんな地図が大航海時代(15世紀末から16世紀)の前に存在したのか? 誰がこの地図を作ったのか? または、後世に創った偽作ではないか、など大きな論 争になっていたことは、以前何かで読んだことがあった。先日、「世界不思議発見」と いうTV番組を見ていて、ようやくその疑問が晴れた。 14世紀中ごろ、モンゴル民族の元の中国支配が終わり、漢民族の明が中国を統一し た。15世紀の初め、明の三代皇帝永楽帝は元への対抗意識があり、元のように対外 積極政策をとり、明の版図の拡大に精力的だった。イスラム教徒の宦官鄭和に大規模 な海外遠征をさせて、その航海路は東南アジアから、インド洋、アラビア海、アフリ カ東岸まで伸びていた。また、世界中に探検の大規模な船団を送り、その報告を受け て世界地図の作成したという。船団の一部は北米西海岸に漂着し、そこに定住した遺 跡があるとか。 17世紀中ごろ、漢民族の明が亡び、満州系の清が建国されたため、この世界地図 作成の偉業は歴史から消されてしまったといわれる。しかし、一部が15世紀末までに ヨーロッパに密かに渡り、冒険者やそのスポンサー達にとって確信のようなものを与 えていたのかもしれない。そうでなければ、リスクの大きな冒険に大金を投資するは ずが無かったのではないか。 海の話題はまだまだ尽きないようである。(次号に続く)