


今年も「はやい」もので、もう1年が終わろうとしています。こう書き出すと、毎年 同じことを書いているような気がしますが、やはり時の流れは「はやい」。この「今年 もはやいもので」の「はやい」とはどういう漢字なのか? 変換キーを押してふと疑問 に思った。(発行の締め切りが迫っているのに) 時間の経つ速度がはやいのだから「速い」のか、時期がはやいから「早い」のか? 仕 事だって、処理するのが「素早く」、「早業」でも、出来ばえが悪いと「拙速」と言わ れる。「速く」走ってゴールすると、「早い」者勝ちとなる。「何でだろう〜、何でだろ う〜。どうする〜?ア*フル〜」などと歌っている場合ではない。 今号の投稿は、4編です。水野さんの「クルージング報告(艇運行編)」、クルージ ング参加の美女2人からの体験記、西田さんの海のスケッチ、それに『風待ち帆陰白波 間の読書案内:漂流記について』などです。西田さんのスケッチの美しさはホームペー ジでご覧ください。(ただ今、引越し中のため、すぐには掲載されません) ところで正解は「早い」なのでしょうね?それともそれは早合点かな? 先ずはお待ちかねの活動報告から。 【活動報告(平成15年9月〜12月)】 《ヨット部 9月例会》 開催日時:平成15年9月9日(火) 開催場所:西庁舎11階会議室 出席者:水野、川浪、吉岡、鈴木、有馬、知田、佐藤、小島 概要:主な議題は以下のとおり。 @伊勢湾クルージングについて 日程を10月25日(土)〜26日(日)、24日(金)は準備と前夜祭とし、8人以上 の参加があれば、美州、朝風の2艇とする。 A練習合宿について 予定は9月20日〜21日で、名古屋港にて行うこととする。宿泊先など詳細は加藤 総務と相談し、決める。 《ヨット部 10月例会》 開催日時:平成15年10月14日(火) 開催場所:西庁舎11階会議室 出席者:水野、吉岡、鈴木、加藤、有馬、知田、佐藤(富 永、竹内) 概要:主な議題は以下のとおり。 @伊勢湾クルージングの最終打合せ ・ 最終参加者確認、宿泊先予約状況、集合時間、事前準備の確認など A合宿練習 11月中に参加可能な日程を調整する。 B打ち上げ合宿として12月下旬に練習と所有艇整備を行う。 《伊勢湾クルージング》 開催日時:平成15年10月25日(土)〜26日(日) 参加者:水野、小島、桜井、間、佐藤、知田、富永、竹内 概要:参加者の人数から、美州1艇のみとなった。今回は緑政土木局測量課の美人技師2 名(富永、竹内)も参加し、少し華やいだクルージングとなった。(別添の体験記参照) 前日の24日金曜日に出航準備をし、冷たい海に入り、船底やスクリューを磨いた佐藤 君はウエットスーツと温水シャワーの出る自慢のキャンプ用改造車を用意していた。 (彼の場合、自前の厚い肉スーツがあるので万全だが・・・) 準備も整い、暗くなるの も待てずに前夜祭の宴会となった。メインはキムチ鍋で盛り上がりっぱなし。そして、 その夜はすばらしい星空だった。 果たして人数分の魚は釣れたか!? 25日早朝、参加者全員集合し、朝食後、午前8時には鬼崎を出港。(ちなみに朝食は トースト、スパニッシュオムレツ、サラダ、スープ、コーヒーなど) 鬼崎の沖合いは岸か ら本船航路近くまで、海苔粗朶や定置網等のブイが規定以上にいっぱい設置してあって、 コース選び苦労した。季節の割に北西の風も弱く、穏やかなクルージングとなった。船 上では、昨夜の宴会の続きを再開した。(あさりの酒蒸し、生ハムチーズクラッカー、枝 豆など) 途中、漁船と間違えてカモメの大群が美州を追いかけてきた。パンの残りを 投げてやると、食べるために寄ってきた。初めての経験であった。漁船の引き網の魚を 狙って集まることはよくあるが・・・ 昼頃には鳥羽桃取水道を通過し、島陰に入り釣りを楽しんだ。ただし、楽しんだだけで あった。例年どおり、釣った魚で昼食などというわけにはいかず、得意の五目チャーハ ンとした。 宿泊先の今浦「海香」に到着し、それぞれ釣りや散策・温泉などを楽しんだ。粘り強い 間君が新漁労長となったが、前任者の深谷氏と大差はなかった。今年はクルージングを 1ヶ月ずらしたので、カキは十分あり、しかも大ぶりで豊作とか。(今年の夏は雨が多く 川からの栄養分の補給が多かったのか?)海の幸山盛り!! 夜の宴会では相変わらずテーブルに載らないほどの料理が山盛りで、大変。飲んでい る暇がなく、ビールがほとんど進まなかった。(もっとも、船上で飲み過ぎたとのうわさ もあるが) 料理の内容は覚えきれなかったが、一部を紹介します。 まず、刺身の舟盛り(タイ、ハマチ、イカ、伊勢海老、あわび)、魚煮付け(いさき?)、 大海老塩焼き、ミックスフライ(海老、白身魚)、野菜てんぷら(珍しい緑色の小ナスなど) 牡蠣フライ、カキ釜飯、カキ鍋、カキ茶碗蒸し、サザエのつぼ焼き、その他、モズク、佃 煮、酢の物、漬物などがあった。その後さらに、生牡蠣、ロブスターの巨大フリッター (西洋てんぷら)トマトソース添え(だと思う。) などが、ドーンと来たため、一同あんぐ り。まるで拷問だ!最後のフリッターは、今までの和風メニューの流れとは違うので 「海香」の息子が隣で経営している「ホテル ラ・コスタリカ」の名物料理なのか? 作り すぎたので、こちらに回ってきたのか? 日替わり定食10日分以上!! まるで刺身定食、フライ定食、煮魚定食など日替わり定食を10日分以上食べること となり、部屋に戻ってそのまま「ばったんキュー」。いつもなら、船に戻って二次会、 夜食にラーメンとなるが、誰も動けず、そのまま布団に入らず眠る者も。 翌朝、朝食には定番の伊勢海老の味噌汁、昨夜の刺身にでた鯛のあら煮(甘辛くて実 においし い。胸びれの辺りにある骨が鯛の形に似ているというので探す)。普通の 朝食メニューで油断しているところに、さらに昨夜の「拷問」が続く。殻付きカキの蒸 し焼きがドーンと運ばれてきた。一瞬、一同身を引くが、何とか平らげた。相変わらず元 気な笑顔の「海香」の女将と老犬「シロ」に見送られ、帰路についた。 北西の風が強く、波もうねりもあった。鉛色の空の下、真北に針路を取り、鬼崎に向か った。 女性2人は初めての経験だったが、荒天の海も辛抱強く耐え、何とか3時ごろに は鬼崎に帰港した。エンジンの調子が今ひとつで、本来の力強い3Gのエンジンの真価 が発揮できなかった(その後、11月2日に幡豆の日産マリーナに修理のため回航した。 詳細は水野さんの別稿『クルージング報告』に譲る。)。 おいしいカキを食べるため、毎回苦労をしているが、牡蠣シーズン真っ盛りの今回は 大満足のクルージングだった。 お疲れ様でした。(しばらく体重計にのるのが怖かった) ![]()
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『クルージング報告』& 《ヨット部 11月例会》 開催日時:平成15年11月11日(火) 開催場所:西庁舎11階会議室 出席者:水野、川浪、鈴木、有馬、知田、佐藤 概要:主な議題は以下のとおり。 @ヨット部ホームページについて 現在のサーバーが廃止されるのに伴い、今後のあり方を検討した。 ・ヨット部ホームページは継続する。 ・ホームページの引越し先はビッグローブ(100MB)の予定。 ・現在約50MBのボリュームがあり、しかも分散しているので暇を見て川浪氏が引越し する。 ・3月までに各自で「リンク」切れなどチェックを。不具合があれば川浪氏までメールで 連絡のこと A部報の原稿依頼 ・「クルージング体験記」(初参加の女性に依頼中)、「操船について」(水野氏執筆中) などを予定。その他募集中。 《ヨット部 12月例会》 開催日時:平成15年12月9日(火) 開催場所:西庁舎11階会議室 出席者:吉岡、鈴木、有馬、知田、小島 概要:主な議題は以下のとおり。 @艇整備について ・12月20,21日のいずれかで、部所有艇の整備を行うこととする。 ・ステーなどの取替えのため、材料・工具等の確認を行う。 ・水野、加藤総務に確認のこと。 A総会について ・1月下旬から2月上旬にかけて、ヨット部総会を開催する。 ・日程については、山田部長の日程調整をして、加藤総務が最終調整決定する。 【トピックス】 『大先輩・岩井さん逝く』 去る9月19日、我々の大先輩の岩井 亘さんが亡くなられました。76歳でした。 岩井さんは第2次世界大戦直後、まだヨットなどという時代に、船大工に頼んで建造 したヨットに乗っていたとか。このヨットは桧の官材無節の木造スナイプで、当時75, 000円したとか。この艇は、この地方で戦後初の日本人個人所有艇となった。当時、 ヨットに乗るというのは戦前からの大学のヨット部などが中心で、学連上がりではなく 独習でヨットを楽しんでいた岩井さんは当時としては特異な存在でした。この地方のヨ ット史でもある「東海ヨット風土記」でも紹介されていました(p101)。 交通局に在職中も、忙しい職務のかたわら県代表の国体チームの監督・選手団総務、 県連理事なども歴任されたり、永く地域のヨット競技振興に尽力されました。我がヨット 部でも大先輩として後輩の指導やクルージングなどでもお世話になりました。退職後も 交通局協力会で、経理担当として仕事を続けながら、ヨットライフも楽しまれました。 小笠原諸島へのクルージングの最中、脳溢血で倒れられたが、奇跡的に再起されました。 岩井さんは、後輩への指導でも決して押し付けがましくなく、控えめで、聞かれたら ニコニコと何でも親切に教えてくれる好好爺という方でした。所有艇の「グッドタイミ ング」や「漣」などのクルーザー上での、あの日焼けした笑顔が懐かしく思い出されま す。 13年1月に、二村元県連理事長の国体功労賞受賞・還暦祝いパーティーでも、杖を 突きながらも奥様同伴でお元気な姿を拝見したのが編集子としては最後でした。 ご冥福をお祈りいたします。合掌。 『中日新聞に我が部紹介される』 平成15年10月5日付中日新聞朝刊スポーツ欄掲載の「いい汗流そう仲間たち」の コーナーに我が部が紹介されました。このコーナーは、地域の色々なスポーツサークル を紹介するもので、少し前には半田市役所ヨット部が紹介されていました。 我が部の紹介写真は名古屋港とスナイプ艇を背景にした集合写真を新たに撮ったもの です。少しはこれで「メジャーデビュー」できたかも。 【編集後記】 40年近く前、編集子が紅顔(厚顔?)の中学1年生の頃のこと。転校生の影響で、毎 日夕方に放送されるNHKラジオのSFドラマに夢中になっていた。ラジオだから、当然映像が なく、宇宙の情景を音と登場人物の描写だけで想像するというものだったが、それまで まったくのテレビっ子だった私にとって、非常に新鮮な感じだった。物語の筋は核戦争 か何かで地球が汚染され、太陽系すら危険となり、避難した惑星ごと巨大な推進装置で別 の太陽系に移動するという荒唐無稽な話だった(と記憶している)。同様な惑星が多く 集まり、それがまさに無数の太陽のように天空に集まったことからか、そのラジオドラマ の題名は『百万の太陽』だった。もしかしたら、読者の中にも知っている人があるかもし れません。(その頃、ミニコミ誌を一人で手作りし校内回覧していたが、その誌名も『百 万の太陽』とするくらい、はまっていた。) そのラジオドラマは、無数の惑星が広大な宇宙に新たな太陽系を求めて「漂流」する という壮大なドラマ(「壮大」と「荒唐無稽」とは紙一重)で、一種の漂流記とも言え る。 海に関わりを持つ我々にとって、「遭難・漂流」ということには敏感であらざるを得な い。実際、「あわや」という経験を持つ部員も多いと思う。活動範囲が伊勢湾・三河湾や志 摩半島周辺といえども、安心はできない。 ご存知の通り、レースのルール集である国際セーリング競技規則でさえ第1章基本原則 の最初に「安全」の項があり、レース中であっても救助の義務、救命具等の装備やレース のスタート・継続の判断なども自己責任とされている。自分の技量と海などの状況を判 断することが課せられている。 この夏にあった琵琶湖でのヨット沈没事故の原因は、風 や波などの自然の猛威が問題ではなく、艇長の安全に対するもっと基本的な問題であろ う。自戒の糧としたい。 最近、低い山での遭難(一時的な連絡途絶、行方不明)がよくある。日帰りできる低 い山だから、という油断なのか。また中高年の集団山岳遭難もよくある。我慢強く、他の メンバーに気兼ねするなどから、無理をして行程を守ろうとしたり、登頂を目指す。その ため、全員遭難する羽目になる。編集子も学生時代、山登りをしていたのでその心理がよ く分かる。「山はいつまでもあるから、また次回登ればいい。無理せず今回は引き返そう。」 と、「勇気ある撤退」がなかなかできないものだ。 (H12年度伊勢湾クルージング報告参照) 知人にこんな男がいる。冬山で吹雪に遭い、雪洞を掘り、じっと天候の回復を独りで待 っていた。これをビバーク(露営)という。天気が回復したら、何だか空をヘリコプター がやかましく飛び交い、何が起こったのかと不思議に思いながら下山した。それはその男 が下山予定を過ぎていたため、捜索していたヘリだったということを後で知った。家族の 心配や関係者の迷惑などをよそに、その男は、「遭難したのではなく、ビバークしていた だけだ」と平然と言い放った。それでも、その男の手と足の指は凍傷で何本かを失ったが。 安全は何よりも優先する。特に自然を相手にする場合は、突然豹変し、その猛威は人間 には到底手におえない相手だから。穏やかでやさしい表情をしていた海が、一転して荒海 に変わり、大波に翻弄され、ある者は海の藻屑となり、またある者は漂流することにな る。 最近は、捜索救助体制や連絡網が整備され、大海を行き来する船舶も多く、漂流しても救 助されることも多い。「奇跡の生還」といわれ、『雨水を飲んだ、魚や海鳥を捕まえて食べ た』など漂流生活記録が新聞記事や本として出版されることもある。断片的に読むと、比 較的楽天的な人が助かっているようだ。しかし、この種の話は「助かって良かった」という くらいの感慨しかないのはなぜだろう。 比較的記録が残っている近世の漂流記の方が、 興味深いのは何故だろう。 その回答は別稿に譲りたいと思います。 さて、先号の『風待ち帆陰白波間の読書案内:海洋文学について』はいかがだったでし ょう。十津川警部は実は学連上がりのヨットマンだった、人気トラベルミステリー作家の 西村京太郎は海洋ミステリーから始めた、海外の海洋文学からヨットマン二宮隆雄の日 本の海洋歴史文学、そして知多半島の偉人伝などなど。「へぇ〜」というボタンを何度 押せましたか? そこで、第二弾、『漂流記について』を前回予告どおり、掲載しました。ご一読を。 また、水野さんの『クルージング報告』は今回の伊勢湾クルージングでの操船、「美州」 のエンジンの調子などについての詳細など、イラスト入りの力作です。さらに、先号でご 紹介できなかった西田さんの画と文もございます。HPでお楽しみください。 毎度のことですが、また編集後記が長くなりました。(Y.K.)
| 『風待ち帆陰白波間の読書案内(2):漂流記について』 上下水道局 小島克生 |
島国日本に何故海洋文学が花開かなかったか、について先号で触れてみた。イギリスで 「ロビンソンクルーソー」が出版されたのは、1719年で、日本では江戸時代の八代将軍 吉宗の頃だった。イギリスと同じくらいの島国で、しかも当時江戸は世界でもトップク ラスの都市で、文化も隆盛を極めていたが、残念ながら海洋文学は芽生えもしていなかっ たようだ。鎖国政策と、外洋用の大型帆船が認められず一本マストの内海航路用の和船 のみで、陸を見ながらの航海では、わくわくするようなロマンを夢見ることなどできな かったのだろう。(和船の構造が必ずしも外洋航海に向いていなかったとか、幕府の禁 令があったという事実はないという意見もある。) <漂泊の物語> 「漂泊記」など、主人公が長く苦難の旅の果て、目的地にたどり着くとか、目的を果たすな どといった物語は多くある。旅の年月が長ければ長いほど、また主人公が味わう辛酸が厳 しくあればあるほど、いい物語になるようだ。 そうした「漂泊記」とか「漂流記」は古代から洋の東西を問わず有る。漂泊記なら有名な のは古代ギリシャの長編叙事詩『オデッセー(オデュッセイア)』、漂流記なら、『ロビ ンソンクルーソー』、『十五少年漂流記』などがある。 「漂流記」は海洋文学のジャンルに入る。主人公が運命のいたずらか、まったく違う世界 に漂着するという、都合のいい劇的な舞台仕掛けができる効果があり、数々の苦難を乗 り越えるという物語が創作しやすいのだろうか。しかし、実際の漂流の記録は壮絶な人 間ドラマとも言える。 <帰国漂流民の取り調べ調書記録> 日本にも比較的記録が残っている江戸時代の帰国漂流民の記録をもとにした作品がな い訳ではない。現代では、吉村昭氏の作品群がその分類に入る。代表的な作品である『大黒 屋光太夫』の主人公は伊勢白子から出航し、途中難破・漂流し、ロシアに漂着し、11年 後にロシアの通商使節ラックスマンと共に根室に帰ってきた。その間、仲間の死、異国での なじまない生活を乗り越え、帰国の望みを捨てずに何とか帰国できたのは、万に一つの幸 運のみであった。 帰国後、厳しい取り調べの詳細な調書がしっかり残っており、立派な「漂流記」と言 えるようなものになっているものもある。調書に書かれてある帰国までの経緯や異国での 出来事、文化、風習、言語などは漂流者が何かメモに残して持ってきたわけでなく、記憶を もとに答えたものである。聞き取りをする者が物事の分かった学者の場合、「質問がよけ れば答えも良くなる」の図で内容も良くなり、一級の歴史資料となっている。大黒屋光太 夫らの調書は、学者桂川甫周によって『北槎聞略』としてまとめられた。 江戸末期から明治にかけ、こうした調書の中で面白いところをまとめた、『東西異聞』 とか『漂流奇談全集』などもある。これらは貴重な資料であろうが奇談もの程度で、海洋 文学とは言いにくい。 帰国漂流民の調書で共通するのが、大時化に遭い、遭難の危機に瀕した時に行われる 対処法で、興味深い一連の儀式のようなマニュアルがあったようだ。激しい波が船内に 入ると、桶や水鉄砲のような排水具で海水をくみ出す。さらに波が激しくなると、波に たたきつけられ、舵が破壊される。(日本の港は通常河口付近にあり、水深が浅く舵が 引き上げ式になっており、構造上強度が低い。)舵が流失すると、船乗り達は全員ちょ んまげを切り、伊勢大神宮、金毘羅大権現のご加護を請うため必死になって祈る。さら に、沈没しそうになると、積荷を海に投げて、船を軽くする。それでもダメなら、最後 は帆柱を切り倒す。二人がかりで斧を打ち込み、最後に帆柱を支えている綱を船頭が刀 で切る。これらの手順はどの船でも同じとのこと。 <漂流・漂着民の運命> 外洋に向かない和船は、ひとたび嵐に遭い遭難すれば、目的地とまったく違う日本の どこかに漂着するか、破船し沈没するか、または海流に乗って日本から遠く離れてしま い、漂流するしかなかった。外洋で漂流し、そのまま船上で力尽きるか、たとえ絶海の 孤島に漂着しても救助されることはまずない。異国に着いても殺されるか、奴隷となっ たり、異国の生活に慣れず客死することがほとんどで、鎖国政策の日本に帰国することな どほとんど考えられなかった。江戸時代中期くらいまでは少なくともそうだったらしい。 こうした漂流民の運命について、吉村 昭 著の『漂流記の魅力』(新潮社)に詳し いので、その内容をかいつまんで紹介する。 19世紀に入ると、日本近海を航行する外国船(特に捕鯨船)が増え、漂流民の運命が 変わった。初めて外国船に発見救助されたのは大阪の稲若丸の8人だった。1806年1 月6日、出航し伊勢に向かう途中難破、漂流中に3月20日にアメリカ船に助けられ、ハワ イへ。そこから、色々な国の船を乗り継ぎ、広東、マカオ、バタビア(ジャカルタ)、翌 年6月18日に長崎に戻った。その間病死などで、帰国したのは2人だけとなり、その内 の1人も、厳しい取調べで発狂・自殺し、故郷に帰れたのは1人だけという過酷さ。その 後も、日本近海で外国捕鯨船に助けられ、沖合いで日本漁船に引き渡されることも多かっ たようである。 有名な万次郎(ジョン・マン)は、無人島の鳥島に漂着し、六ヶ月後に救助され、アメ リカ本土で教育を受け、帰国後、幕末の日本で活躍した者もいる。アメリカ彦蔵も同様で あった。 <漂流・漂着民の利用> しかし、諸外国が日本に開国通商を望むようになると、漂着民の扱いが変わってきた。 漂着民を優遇し、日本語教師にしたり、希望すれば帰国までさせようとした。悪い言い 方をすれば、漂着民を「人質」にして、送り届けることを理由に交渉の機会を作ろうと したようだ。 アメリカが日本に開国を迫ったのは、捕鯨船の水と薪の補給が目当てだった。アメリ カで当時盛んだった綿織物や紡績機械の潤滑油を鯨から採っていた。捕鯨し、肉や骨は 海に捨て、脂肪分のみを採り、船上で薪を炊き鯨油を取り出していた。肉や骨、ヒゲ(か らくり人形のぜんまいなど)までも大切に使い切った日本と違い、油だけ採って乱獲した 国が今では捕鯨禁止の先頭に立っている。(アメリカンインディアンが大切にしていた バッファローの毛皮のみを欲しくて乱獲し尽くしてしまった国でもある。)再三、漂流 民の帰国を利用して、日本に開港を迫ってもなかなか応じなかったので、最後にはペリ ー提督率いる軍艦4隻で強引に開国させることになった。 ロシアも冬でも凍らない港を求めて南下政策をとり、日本に開国を求めた。太平洋岸 で遭難すると、黒潮の影響で、カムチャッカ半島やアリューシャン列島などに漂着する ことが多かった。当初は殺され、積荷を略奪されることもあったようだが、皇帝の意向 で、17世紀末頃から日本語教師や通訳にし、高給で厚遇するようになった。日本語学 校も作りロシアの少年に日本語を教えた。中には、「東北なまり」のきついロシア人通 訳が養成されることもあったようだ。 <若宮丸の運命> 運良く帰国できた漂流民は、異国でやむを得ずキリシタンに改宗したかどうか問われ、 その後厳しい取り調べがあった。 『大黒屋光太夫』の神昌丸乗組員17人は、1982年遭難し、漂流8ヵ月後にアリュ ーシャン列島に漂着し、その間12人が飢えと寒さで死に、光太夫を始め5人が残った。 苦難の末、首都ぺテルブルグに赴き、帰国の願いを女帝エカテリナに訴えた。女帝は同 情し、かつ南下政策もあり、5人の内3人のみを使節ラックスマンと共に帰国させること にした。残りの2人は、凍傷で足を切断した庄蔵とキリシタンに改宗して帰国できない新 蔵であった。3人は1792年、根室に11年ぶりに帰国したが、内1人はまもなく病 死し、光太夫ら2人は江戸に送られ、取調べを受けた。 ロシアに残った庄蔵と新蔵はその後どうなったか。光太夫らが帰国した翌年(199 3年)、石巻の若宮丸が難破、漂流し、アリューシャン列島に漂着し、オホーツク、イルク ーツク(バイカル湖畔)に移送されて、そこにいた庄蔵らの世話になった。若宮丸の乗組 員16人は、極寒と慣れない生活で病死したり、絶望したりし、仲間内での対立などの数 々の苦難を経ながら、イルクーツクに移ってから7年が経過した。そんな時、皇帝に謁見 することとなり、50日ほどかけてロシアの首都ペテルブルグに出かけた。首都にたど り着けたのは10人で、帰国希望者は59歳の津太夫ら4人となった。残留希望者6人は 滞在も長くなりロシアでそこそこの厚遇を受け、現地の女性と結婚するなど生活の基盤 もできてしまって、今更という気持ちだったのだろう。 北太平洋地域の貿易独占権を皇帝から与えられていた露米会社総支配人のレザノフが 使節に任命され、1803年6月、日本人4人を伴い、ロシアを出航した。ロシア軍船「ナ ジェンダ号」はバルト海を進み、コペンハーゲンから大西洋へ、(赤道をロシア船として 初めて通過)カナリア諸島、ブラジル、ホーン岬、太平洋へ出て、イースター島、ハワイ 諸島、カムチャッカ半島のペトロパウロフスクへ着いたのが翌年の1804年7月、地 球を一周してまた漂着地に戻った訳である。8月下旬には港が凍結するので、8月5日に 出港し、江戸を通り過ぎ日本の西のはずれの長崎に向かった。12年前、ロシア使節ラック スマンは根室に着いたが、幕府は交易についての交渉は長崎が窓口と言って追い返したた めである。漂流して11年目の9月6日、長崎に到着した。 やっとの思いで帰国しても長崎奉行の態度は冷たく、レザノフの通商の申し出も、江 戸幕府の指示がない限り、漂流民ともども受けられないとした。翌年の1805年3月 に江戸より目付遠山金四郎(何と、あの有名な桜吹雪の金さん!)が全権として長崎に 着き、レザノフと交渉に入った。長崎に入港して半年も待たせておいて、結局、通商交 渉は不調に終わった。しかし、津太夫ら4人の漂流民は日本側に引き渡され、ロシア船 は3月20日に長崎を出港した。 長崎で4人は取調べを受け、その後江戸に向かい、12月からは仙台藩江戸屋敷で、 藩医で蘭学者の大槻玄沢にこれまでのいきさつを聴取された。それが翌年1806年2 月まで続き、その調書が『環海異聞』としてまとめられた。その後、津太夫らは帰郷し たが、若宮丸で出港して以来、13年ぶりに故郷に帰ることができた。しかし、4人の 内、2人は帰郷してすぐに亡くなった。残りの2人はそれぞれ天寿を全うしたようだ。 <帰国できなかった漂流民> もちろん、外国船に救助された漂流民がすべて帰国できた訳ではなく、中には祖国を 目前にしながらも帰還出来なかった者もいた。1837年、浦賀沖に来たアメリカ商船 モリソン号は通商要求と漂流民7人の返還が目的だったが、幕府は鎖国を理由に威嚇砲 撃し、追い返してしまった(「モリソン号事件」)。 その後の7人の運命はどうであったか?愛知県出身の音吉を始め3人、熊本出身の2 人、長崎出身の2人だったが、日本を追われた後、「香港に初めて来た日本人」として 記録が残っていた(記録が残っているという意味で「初めて」)。ドキュメンタリー映 画監督の大隈孝一氏の地道な調査の結果、わずかながら7人の足跡が分かってきた。 中国人と結婚して荒物業をマカオで営んでいたが、妻の愛人に毒殺された者、香港で 仕立屋として成功した者、マカオで印刷工になった者、中国で麻薬中毒になり亡くなっ た者、香港の貿易会社で通訳になった者2人、愛知県美浜出身の音吉はシンガポールで 現地人と結婚していた。音吉は通訳として長崎を訪れた記録が残っているし、他の2人 の通訳も帰国する機会はあったかもしれない。しかし、彼らは香港で死んだと記録され ているところを見ると、帰還を許されなかった祖国に失望し、外国で生きる道を選らん だのではないかと、大隈氏は見ている。美浜町の良参寺には音吉ら3人の墓があるとい う。遺骨はなく、遭難してしばらくして家族が墓を建てたのであろう。我々にとって身 近なところに「漂流記」に関係する足跡があることに驚く。 <望郷の漂流者> 漂流してそのまま死んだ者、十数年かけて帰国した者、異国に留まった者、それぞれ どのような思いをしたか。船乗りとしては、「底板一枚下は地獄」という船の宿命を十分 承知している。しかし、ある日突然、大海に船ごと放り出されて風や海流まかせの、当て のない漂流を強いられる。大海での船の往来も少なく捜索救難体制もない時代では、気 の遠くなる時間の流れ、否、時間がその世界だけ止まっているかのような、見捨てられ た世界が広大無辺に広がっている。 積荷が米なら多少の期間は飢えをしのぐこともできるだろうが、仲間が次々と死に、だ んだんと絶望の淵に追い込まれる。漂流者の望郷の念はすさまじいものがあったのであ ろう。 海難救助の118番やレーダー、GPSがある現代は「漂流記」の世界とは隔世の感があ るであろう。しかし、逆に安全に対する安易な気持ちや、風や雲を読むような研ぎ澄まれ た感覚が失われてしまっているのかも知れない。 「おっと! アンカーが流れている! 漂流している! 風も出てきたし、波の大きく なりそうだ。風待ちのつもりだったが、帆陰でつい漂流記に夢中になっていた。しかも、 ビールも切れたので、いつものように帰るか。」 参考文献:吉村 昭『漂流記の魅力』(新潮社) 加藤九祚『初めて世界一周した日本人』(新潮社)