小生が入部したS54年頃は我が部の活動がなんとなく沈滞していた時期で,練習日の参加者も2〜4人,誰か来るのを1時間もポケ〜と待っていることもあるような状況でした.
レース海面まではかなり距離があったのですが,風があるのでブッ飛んで行きました.
何の予備知識もなく始めたのですが,練習はトラの子の新艇"23471"を使って堀江監督にマンツーマンの指導を受ける豪華版*でした.
そして,センターボードとの心中未遂事件の尻ぬぐいも,ハーバー近くで漂流した時に救援にかけつけてくれたのも堀江師匠でした.彼はその後,競輪からトライアスロンとかいうキチガイレースにのめり込んでヨットは事実上引退してしまい,小生が最後の直弟子となりました.

この時の会場は東京・夢の島の仮設ハーバーでしたが,1日目は風が強く,その上湾内で浅いためか波がかなりありました.
しかし,'83群馬国体のリハーサルを兼ねていることで,レスキューの体制は万全,自衛隊の掃海艇までいるし,回りは陸地,それも大東京のビル群が見渡せるくらいだからどうってことないと,西田さんと張り切って出艇して行きました.「さぁ行こか〜」,「両手(10位以内)では帰って来いヨ〜」,「片手で帰って来るド〜」
ところが,レース海面に着いてスタートライン確認中,ブロー(突風)を受けてオットット,チーン.この時はスタート時刻までまだ10分余りあったので,精神的には余裕があったのですが,風と波のためなかなか起こせず,なんとか起こしても又々チーン.---その後N旗が揚がってレースは中止.
まだ11月初とはいえ東京湾の水は泳ぐには十分に冷たく,次第に体力と気力の消耗を感じるうちに何度目かのチンの時,メンスルの下じきになってしまいました.最初は"なっ,なんだ,これは!"次に"こりゃ,やばいっ"とあわてて潜ってセールの外に出ようとしたのですが,バウの方へ出たため,今度はジブセールとシートがからみついてきました."このヤローお前までが"(と本気で相手が生き物みたいに感じたナ)と,奮闘の末やっとの思いで脱出しましたが,潮水を少なからず飲んでヘトヘトになってしまいました.
ウエットスーツに身を固めたレスキュー隊員のいきのいいのが飛び込んでくるのを見たときは,ワ〜正義の味方,カッコイィ〜
助っ人のおかげで,艇を起こしてセールを降ろし,レスキュー艇に引かれてハーバーへ帰って来ましたが,疲労と寒さで陸上から呼びかける仲間の声にも手を上げて応えるのが精一杯でした.
(心配のふりだけでホントは高見の見物じゃねぇノ,逃げ帰る時だけトップでも自慢にならへんド)
浅すぎてレスキューボートが入れずゴムボートで助けられたそうですが,それに比べると僕らはまだましかナ.いゃ,彼らは動きがとれずに帰って来れなくなっただけだから,ちょっとでも死の恐怖を味わったこちらがやっぱり上だナ〜
[名古屋帰還後その1]
やっとの思いで悪夢の島から生還したのに,寂しかったナ〜 だけど世間でいう通りやっぱり,"アホな子ほどかわいい"もんデス.
愚妻は「生命保険いくらだった〜?」.子供と違ってアホな妻は腹が立つだけ・・・もっとも本人は愚かな妻であることを認めようとしません.「私は賢い正妻です.アンタみたいな意地とメンツだけの単純人間と一緒にしないで,大体バカとかアホなんてアンタがヒトに向かって言うせりふじゃないっ!」
---言うか〜?そこまで.マ,いいか,精神に障害のある方も"自分は正気"と言い張るっていうから.
「1時間も漂流したんだって?いいかげんにせいヨ,もう子供もいるんだから・・・」に対し,「いぇ40分くらいのものですけど〜」と答えると,なぜかなお不機嫌になって黙ってしまいました.
この事件以降,レースに対する情熱が徐々に冷めて,次第に蒲郡が遠く感じられるようになってきたのですが,ちょうどこの頃,和政クン,敏クン,少年B,敬チャンら有望な青少年が続々入部したことで,我が部は活況を呈するようになりました.