ヨットレースに用いられる国際信号旗
IYRU(国際ヨット競技連盟)競技規則によって定められています.
P旗はレース開始とスタート5分前を通知するために本部艇に掲げられ,スタート時刻に降下されます.("旗あがってるけど,あれ何?"ではお話になりません)
N旗はレースの中止を通知するために掲げられます.
他にゼネラルリコール(スタートやり直し)をレース艇に知らせる第1予備旗,コース短縮を知らせるS旗等があります.
B旗は各レース艇が(他艇による進路妨害等の)抗議の意思表示時に展開します.


 小生が入部したS54年頃は我が部の活動がなんとなく沈滞していた時期で,練習日の参加者も2〜4人,誰か来るのを1時間もポケ〜と待っていることもあるような状況でした.
 何の予備知識もなく始めたのですが,練習はトラの子の新艇"23471"を使って堀江監督にマンツーマンの指導を受ける豪華版*でした.
 そして,センターボードとの心中未遂事件の尻ぬぐいも,ハーバー近くで漂流した時に救援にかけつけてくれたのも堀江師匠でした.彼はその後,競輪からトライアスロンとかいうキチガイレースにのめり込んでヨットは事実上引退してしまい,小生が最後の直弟子となりました.

* 部員数の多い学生ヨット部では,一年生が艇にさわれるのは人力運搬と洗艇の時だけというのが常識だそうです.シビア〜

 さて,英才教育のおかげで一応イッチョ前になった小生は,S57年11月1〜3日開かれた第9回全日本自治体職員ヨット競技大会に参加し,忘れられない経験をしました.

 この時の会場は東京・夢の島の仮設ハーバーでしたが,1日目は風が強く,その上湾内で浅いためか波がかなりありました.
 しかし,'83群馬国体のリハーサルを兼ねていることで,レスキューの体制は万全,自衛隊の掃海艇までいるし,回りは陸地,それも大東京のビル群が見渡せるくらいだからどうってことないと,西田さんと張り切って出艇して行きました.「さぁ行こか〜」,「両手(10位以内)では帰って来いヨ〜」,「片手で帰って来るド〜」

 レース海面まではかなり距離があったのですが,風があるのでブッ飛んで行きました.
 ところが,レース海面に着いてスタートライン確認中,ブロー(突風)を受けてオットット,チーン.この時はスタート時刻までまだ10分余りあったので,精神的には余裕があったのですが,風と波のためなかなか起こせず,なんとか起こしても又々チーン.---その後N旗が揚がってレースは中止.
 まだ11月初とはいえ東京湾の水は泳ぐには十分に冷たく,次第に体力と気力の消耗を感じるうちに何度目かのチンの時,メンスルの下じきになってしまいました.最初は"なっ,なんだ,これは"次に"こりゃ,やばいっ"とあわてて潜ってセールの外に出ようとしたのですが,バウの方へ出たため,今度はジブセールとシートがからみついてきました."このヤローお前までが"(と本気で相手が生き物みたいに感じたナ)と,奮闘の末やっとの思いで脱出しましたが,潮水を少なからず飲んでヘトヘトになってしまいました.

 東京湾の水は汚くて油臭いと感じる余裕などその時はなく,後になってからですが,腹のほうは別に異常ありませんでした.---普段から暴飲暴食で鍛錬しているからネ.
 その後,西田さんがレスキューに"ギブアップ,救助請う"を告げたときは正直言ってホッとしました.
 ウエットスーツに身を固めたレスキュー隊員のいきのいいのが飛び込んでくるのを見たときは,ワ〜正義の味方,カッコイィ〜
Fig東京タワーをバックに,無念−"みじめの曳航" 
 助っ人のおかげで,艇を起こしてセールを降ろし,レスキュー艇に引かれてハーバーへ帰って来ましたが,疲労と寒さで陸上から呼びかける仲間の声にも手を上げて応えるのが精一杯でした.
振る元気も残ってない.参った〜
 上陸すると仲間の勧めですぐに送迎バスでホテルに戻り,服を脱ぐ余裕もなくそのままの格好で温かいシャワーの下でじっと数分間.
ア〜生き返った〜

[上陸後その1]
波が高かったし,運転がへたなためか(助けてもらっといてそういう言い方はありませんネ)レスキュー艇が救助作業中,小生らにニアミスしていたのですが,こちらのラダーがレスキュー艇のペラで削られていました.---あれが手か足だったら・・・オットロシ〜
[その2]
我がチームもう1杯の森・間組はレース中止を予想していたので,N旗と同時にUターンしてハーバーへ戻り,陸上でなかなか帰ってこない僕らのことを心配していたそうです.
(心配のふりだけでホントは高見の見物じゃねぇノ,逃げ帰る時だけトップでも自慢にならへんド)
[その3]
開業前の東京ディズニーランドの近くまで流された四国の艇もありました.
 浅すぎてレスキューボートが入れずゴムボートで助けられたそうですが,それに比べると僕らはまだましかナ.いゃ,彼らは動きがとれずに帰って来れなくなっただけだから,ちょっとでも死の恐怖を味わったこちらがやっぱり上だナ〜


あやうく,テテなし子?
[名古屋帰還後その1]
 東京遠征中,四日間顔を合わせてなかったハイハイの息子は親父の顔を忘れたようで,"コレ,ダレ〜"という様子でしばらく寄ってきませんでした.
 やっとの思いで悪夢の島から生還したのに,寂しかったナ〜 だけど世間でいう通りやっぱり,"アホな子ほどかわいい"もんデス.
 愚妻は「生命保険いくらだった〜?」.子供と違ってアホな妻は腹が立つだけ・・・もっとも本人は愚かな妻であることを認めようとしません.「私は賢い正妻です.アンタみたいな意地とメンツだけの単純人間と一緒にしないで,大体バカとかアホなんてアンタがヒトに向かって言うせりふじゃないっ
 ---言うか〜?そこまで.マ,いいか,精神に障害のある方も"自分は正気"と言い張るっていうから.
[その2]
 数日してこの事件がしゅうと殿のお耳に入ることとなり,説教を受けるハメとなりました.---愚妻には口止めしても,勤めが同じ大学ではどこからか漏れるのもしかたがない.
「1時間も漂流したんだって?いいかげんにせいヨ,もう子供もいるんだから・・・」に対し,「いぇ40分くらいのものですけど〜」と答えると,なぜかなお不機嫌になって黙ってしまいました.

 この事件以降,レースに対する情熱が徐々に冷めて,次第に蒲郡が遠く感じられるようになってきたのですが,ちょうどこの頃,和政クン,敏クン,少年B,敬チャンら有望な青少年が続々入部したことで,我が部は活況を呈するようになりました.


 記:Dec.-1985