Fig.イャ〜遊ぶのも疲れますナ〜ご同輩
あの'84年が最初で最後のクルージングとなったという部員もいますが,小生はのど元過ぎれば・・・ の単純思考で,一時の苦しい思いからの"クルージングなんかもぅ行かんとこぅ"の決心もすぐに忘れ去られ,それからも毎年参加しています.
23〜25 Oct. 鬼崎〜鳥羽本浦〜鬼崎 参加者11名
この日朝から風が強く,朝8時過ぎ本浦を出て鳥羽湾内を機走している時から皆かなり真剣な表情で,「今日は美州を鳥羽に置いたまま電車で帰ったほうがエェ.来週土日にまた来ればいいんだから」との提案はあったし,若手も小生の顔色をチラチラうかがっていました.・・・当然のごとくここは無理しても平然をよそおう
後は全員が心を一つに鬼崎を目指すだけです.(ずっとキャビンで寝っ転がったたままゲロゲロやってただけというお客さんもいました,約二名ほど.)
しかし,午後3時近く鬼崎入港のため北から東へ転針して間もなく,心配して鬼崎で帰港を待っていてくれた水野氏が防波堤で手を振る姿を認めた時はえらく嬉しかったし,もやいを取ってエンジン停止したときのホッとした満足感は忘れられません.
また,この内の一人のオッチャンとしばらくして次にお逢いした時には,「イャ〜えろぅ世話になって,川浪サンが太平洋横断とか世界一周する時にはつきあうわ」.
美州−30feet(ちょっと淋しい一杯のみ)

美州ではそのキャリヤから通常,水野氏か森信氏がスキッパー(艇長)ということになっています.しかし,この時の帰路は二人ともいなくて小生がスキッパーということになりました.(相談なしでもあうんの呼吸で自然と役割が決まるところが美州グループのいいところデス)
が,"たとえレースであってもスタート,リタイヤはすべて各艇独自,ひいては艇長の判断に任される"というヨット乗りの常識を考えるとかなりの緊張感を覚えていたことも事実で,桃取水道(鳥羽湾から伊勢湾への出入り口)を抜けたところであの'84年の時より荒れていたならば引き返そうと考えていました.
そして,伊勢湾が見えたところで"これは少なくともあの時以上ではない"と判断したので,「よ〜し,みんなライジャケ着けてくれヤ,セール揚げようゼ」
ライジャケ着用については,この少し前ヨット初めてのオネエチャンから「わたし,ずっとキャビンの中にいるからライフジャケットしなくてもイイ?」と尋ねられて,ちょいとしたやりとりが・・・
強い向かい風の中で7時間ティラー握りっぱなしというのはかなり辛いものがありました.途中,敏クンがトイレに立った時に足を滑らせて危うく落水という場面があったくらいで,皆ただ辛抱あるのみ.
他の乗員も「水野さんの手を振る姿は印象的だった」と今も言います.
ところで,キャビンから全く出てこなかったお客さんは,鬼崎でシャワーの後はすぐに元気を取り戻し,皆と一緒にいろいろ食いまくっていました.
--- 寝転がってただけで体力は温存してたし,このまま帰ったんでは苦しい思い出だけの拷問クルージングになるからネ.
--- イェ,それほどの腕も根性も持ち合わせておりませんし,もしやるにしても慎重に別の相棒選びます.やっぱ,生きて帰って来たいですから.
記:Jan.-1993